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第43回 荻津郁夫

『見るということ』

僕は生まれてこのかた眼鏡とは無縁だった。サングラスや花粉除けの伊達眼鏡は使ったことがあるから、正確に言うと度の入った眼鏡にはお世話になったことがない。
ところがこのところ細かい書類が見えにくい、というよりぼやけて見えない。夕方になると文字を見る気がしない。照明が暗すぎると以前年配の施主から指摘された理由が実感できる。寝不足でもないのに目が疲れる。肩もこる。日中でも瞼が自然に下りてくるのだ。体が見ることを億劫がっているといった感じだ。
打合せで書類を見にくそうにしていると隣の同い年の構造設計者が眼鏡を差し出してくれた。あらら、くっきりよく見える。前にも縮小版のカタログを見るときに借りたことはあるのだけれど、眼鏡になじみのない僕は自分用に作ろうとは考えもしなかった。が、今度ばかりは早速眼鏡店に行ってチェックしてもらうことにした。


検眼器の前に座って一通りの検査が終わると、

「両目とも乱視があり左目がやや近視きっと近くのものは左目で遠くのものは右目で主に見て結構無理して生活なさってられるのでしょう、これでは疲れますよね」
と堂に入った営業トーク。たくさんあるレンズの中から老眼用と乱視用とを左右2枚ずつ選び取り、さあこれでいかがですと言われてかけてみる、と同時に目の前に新聞紙が差し出された。くっきりすっきり気持ちよく見える。
「でもー、新聞紙が菱形に歪んで見えるのですが、、、」
「そうですね、今まではお客様の目には逆に歪んだ菱形の新聞紙が映っていたのですよ、それを脳が補正して直角に見えていたのですね、だからしばらく慣れれば大丈夫です。」
エッ、そういうことなのか? 
見えていると思っているものは、実は自分が(脳が)見たいもの? 
慣れるということは、自分が(脳が)わかっているものに翻訳していくこと? 


冷静に考えれば当然のことだし、この慣れがあってこそスムーズな日常生活が送れるのだろうけれど、近頃見慣れてきた、超高層が林立する都市風景、皆が一斉にメールを始める車内風景、そんなものたちに対する違和感が薄れていくことに漠然とした不安を感じているこのごろです。時々、子供の目にかえって周りを見てみなくては。(とはいえ、今の子供たちこそそんな風景に何の違和感もないのでしょうが)

2005/09/01

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