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第32回 服部郁子

『聴こえてくるもの』
五感のうち視覚・聴覚・嗅覚に関する情報はむこうから飛び込んでくるものを受け入れざるを得ないだけに、時としてストレスとなることがある。 視覚情報は目をつぶればシャットアウトできるし、そちらに目をやらないなど、比較的コントロールが可能ではあるが、美しい景色の前に醜悪な看板があったりしても、見たいものだけを選択的に見ることはできない。

ましてや、においは一旦遭遇してしまえば、避けようもなくこちらの感覚機関に到達してしまう。

一日中汗と埃にまみれて過したような日、帰宅すると飼い犬が大喜びで出迎えて、嬉しそうに(うっとりと!)臭いを嗅いでくれる時、ちょっと慰められる気がしたものだ。 もっとも、犬にとってイヤな臭いはないのか、我々には悪臭といえる路上の置き土産(ウ○チ)のにおいなども、気の済むまで仔細に嗅いでいる。我々人間が見たがり屋なのと同じくらい、犬達は嗅ぎたがり屋である。

最後に飼っていた犬は、車で出かけた日には、「どこに行っていたの?」というようにタイヤのにおいを嗅いでいたりもした。

人間は視覚が発達した分、嗅覚は退化したという。果実の熟したのや、肉の腐ったのは、確かに外見からも大体判断できる。

また我々の嗅覚はすぐに疲弊してしまう。生活のにおいはそこに住んでいるものには案外意識されなかったりするようだ。 家の中の人工的なかおりも同様である。使っているうちに慣れきってしまうのか様々なかおりをまとった家もある。金木犀のかおりは、ついトイレの芳香剤を連想してしまうが、金木犀には迷惑な話。

視覚や嗅覚とくらべると聴覚はもう少しデリケートな側面をもっている。 雑踏の中で、知人に名を呼ばれるのを鮮明に聴き分けたりする経験は誰しもあるだろう。 会議のテープ起こしなどすると、会議中は気付かなかった室外の音が沢山入っていて驚くこともある。 意識していないが我々はかなり選択的に音を聴き分けて生活しているようだ。

BGMにはマスキング効果がある。と上手い表現をする人がいたが、先日アイドリングストップしたバスの中に出現した不自然な沈黙の居心地の悪さに、それを思い出した。

私自身は、音情報のコントロールが苦手なほうだ。 音楽を常に流していると、聴きこんでしまって現実感が希薄になる。それは、読書三昧の日々を送っていると、ちょっと夢想的になってしまうのと似ている。 事務所でCDを聴きながら仕事したい神田と、音は要らない私と・・今でも折り合いのつかない部分である。

同じ町内であっても、木造の自宅とマンションの一室の事務所とでは、聴こえてくる音は随分違う。鳥の声や雨の音は自宅にいる時、圧倒的に身近である。

降りしきっていた雨音が静まると、キジバトが鳴き始めたり、夏の夜ならば虫の音が聴こえて来たりする。

深夜、雨音を聴きながら浴槽の中にじっとしているのは、至福の一時である。 見たいものを見て、聴きたいものを聴くのはもちろん素晴しいが、聴こえてくるものに聴きいる時間も素敵だ。

2005/04/05

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