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第171回 横山敦士

『 野毛・センセイの鞄/川上弘美 』

横浜の好きな場所で、野毛をあげないわけにはいかない。大学で横浜に来て、最初に行った所が、野毛の老舗ジャズ喫茶「ちぐさ」だった。横浜での新生活にハービー・ハンコック「処女航海」を親父さんにかけてもらい、苦いコーヒーを砂糖もミルクも入れずに飲んだ。

その頃は、横浜やジャズという記号のようなものの雰囲気に触れるだけで、静岡の田舎から出て来た青年は満足していたのだろう。あれから四半世紀、野毛での楽しみ方もいくらか変化がある。

物語に野毛が出てくるのではないのだが、「センセイの鞄/川上弘美」を読んでいて感じた事だ。

物語のセンセイとツキコさんは、高校の恩師と教え子の間柄。十数年ぶりに駅前の居酒屋で隣あわせて以来、ちょくちょく往来するようになる。

歳は三十と少し離れているが、肴の好み、人との間のとりかたも似ていて、同じ歳の友人よりも近しい関係になる。センセイとツキコさんが過ごした日々は、あわあわと、そして色濃く、流れる。

花より団子というか、色気より食い気というのか、センセイとツキコさんがつつく肴の方にどうしても惹かれていく。物語のほとんどで、お酒を飲んでいるのだから仕方ない。

センセイとツキコさんは、いつも居酒屋でお酒を飲む。かたや、ツキコさんの同級生が誘うのは、ジャズが流れるバーだ。


ツキコさんは、バーにくると、その場所に自分がいるべきではないような気がする。しぼった音で流れるスタンダードジャズ。きれいにみがきあげられたカウンター。一点のくもりもないグラス。かすかなたばこの匂い。ほどよいざわめき。非のうちどころがない。それがかえって居心地を悪くさせる。

「ちぐさ」は、なくなってしまったが、静岡の田舎から出て来た青年も歳を重ね、雰囲気だけでないジャズの魅力やお酒を飲む場所をおぼえた。野毛には、センセイとツキコさんが酒を傾けていそうな居酒屋がある。

2009/08/09

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