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第154回 横山敦士

『 「黄色い雨/フリオ・リャマサーレス」を読んで 』

家の中に芝を生やしたり、屋根に樹を植えてみたりと、自然と共生する住宅が提案されている。自分自身も、光と風を取り込み自然を感じられる家を、などともっともらしいことを言ってみたりする。

建築はもともと、人間をまもるシェルターとして、自然を遮蔽するものであったはずである。最もプリミティブな住宅としての洞窟などは、まずは雨さえしのげれば良かった。強い日差しを遮るための屋根や庇、湿気や毒虫毒蛇の侵入を断つための床、風や寒さを防ぐ堅牢な壁と、建築すなわち自然との乖離だったはずである。

人が住まない家は、傷みが早いと言うが、経験上納得できる。換気が行われないために湿気がこもり、黴や微生物がはびこる。遠慮していた害虫なども、人間がいないことで我が物顔でふるまうからだろう。人が住んでいて雨漏りすれば修繕するが、空き家となれば、少しの雨漏りが更なる荒廃を引き寄せる。建築の殻は少しずつはぎとられ、自然と同化してしまう。

では、人が住まない村はどうだろうか。「黄色い雨/フリオ・リャマサーレス」は、櫛の歯が抜けるように一軒、また一軒と離村がはじまり、ついには誰もいない廃村になってしまうスペインのアイニューリェ村の話である。沈黙と記憶に蝕まれて、すべてが朽ちゆく村で、亡霊とともに日々を過ごす男のモノローグ。男の孤独と喪失が、村全体に沈黙と悲しみの黄色い雨となり浸透してゆく。

その世界は、いままでに読んだことのない、美をもった空気に包まれている。孤独の中で死んで行くときの死とは、もしかしたら死ではないのではないだろうか。身体という殻が少しずつはぎとられ、魂が自然と同化してしまう。悲しみと同化してしまった廃墟の美しさで、しばらく口がきけなかった。

2009/01/24

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