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第122回 室伏次郎

『 最近観た映画:風景とまなざしの意味するところ 』


「長江哀歌」を観た。傑作だと思う。

感動したと言うのとも違う。強く「見てよかった」と思うのだ。

中国映画はほとんど見ていない。なんとも言えないコミュニケーションの不能性を勝手に感じていて、親しみを感じ得ず食わず嫌いの関係となっていた。

今回は映画フリークの友人から「ぜひ見ろ、全編廃墟の風景が舞台だぞ」の一言に突き動かされて出かける事となった。

話は簡単である。時制は現在形の中国。過去の中国、現代の中国それぞれを表徴する中年男と若い女が登場し人探しの旅をしている。二人は何の関わりもなく、交差する場面もなくそれぞれの事情をもって同じ街に登場する。中年男も若い女の夫も男たちは出稼ぎに出た事でその妻との永い不在の関係にある。それを埋めようとしあるいは清算しようとする旅である。中年男は16年もの不在の間に新たな生活を営んでいる妻と遭遇し、すべてを受け入れ妻を身請けする稼ぎの為に新たな旅に出る。若い女は自分の新しい生活の為に、探し当てた夫に別れを告げて去る。ストーリーはそれだけである。

ロケーションは近代化中国を支える為の現在進行形の巨大国際プロジェクト、長江ダム建設の現場となっている街で、間もなくダムの底に沈もうとしている。

冒頭の長江船着き場、ワンカット長回し、スローテンポ、移動パン、ドキュメントタッチの映像、極端に少ないせりふ、といた要素で、僕の好きなアンゲロプロスからの影響大というか彼へのオマージュの強い監督と理解する。

中年男は元炭坑夫で、大ハンマー一丁をただ一つの道具としてダムに沈もうとする街の巨大建造物を解体する仕事をしつつ妻の行方を追っている。其の姿はさながら働く蟻の群れの様な人海戦術という風景で歴史的中国を象徴する。若い女は出奔したと思わせる夫を捜しつつ累々たる廃墟のあるいは廃墟にされつつ在る風景の中をさまよう。

見上げると巨大ダムの能力をアピールする完成時の水深を示す大看板が遥か丘の上に示されている。このダムには其の巨大さ故に結果としての大環境破壊、広域にわたる歴史遺産の湖底水没などの予想の基に地球規模の批判に晒されている背景がある。

が、監督は声高に環境問題へのオブジェクションを撮る事はしない。淡々と単純な物語を展開させ、すべてを風景として見ること、登場人物のまなざしのなかに意味を込めている。

不条理で不思議なシーンが唐突に3カット登場する。想像上の近代建築的な構築物がロケットの発射の様に舞い上がる。中年男がその仲間と裸で酒盛りする中で古代中国の武将らしき装束の者どもが酒を酌み交わす。そしてエンディング近く、中年男がすべてを受け入れ、希望の地としての次の労働現場へ向かう船着き場で、夕焼けの空に高く長江を渡るロープを危うげにバランスを取りながら綱渡りする男の風景。其れを見上げる中年男の不敵な笑みを含んだまなざし。唐突な不条理の映像挿入もアンゲロプロスやブニュエル譲りと言うべきか.だがここでは其の象徴風景のアイディアの切れ味に脱帽。映画的曖昧さの勝利と。

激動する今の中国にあって、其れ故に苦しんでいるおそらく圧倒的多数の人たちの存在がある。その存在に向ける監督のまなざしは、優しく、希望を見いだし、あからさまではないユーモアーの気配を漂わせて、強く訴えるものが在る。

奔流のごとく人々を飲み込見ながら突き進む中国近代化という時代の流れ。其れはやがて人々に豊かさをもたらすものなのか、とてつもない欲望の神話に至るものなのか。そのなかにあって変化をリードする側からではなく、あくまでも避け難く変化の波に飲み込まれる側の視線からそこにある問題の本質を示そうとする、意志力の強度に打たれる。其れを語る象徴的廃墟の映像の静けさが見るものの心に問題の大きさと深さを沈着させる。ダム底に葬られる歴史、水底の街と言う幻想のイメージが美しくも怖い風景。

日常のリアルな風景に埋め込まれた象徴的な主題。不条理の幻想風景。

建築家の仕事は、映画監督の脚本、製作過程とよく似ていると言われるが、いい映画に巡り会う度に埋め込まれた主題の表現手法として、建築もまたかく在りたいという想いを持つこととなる。必見

2007/10/30

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