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第12回 諸我尚朗

『おおきな木』

アメリカのシルバスタインは詩人であり音楽家、漫画家。ヒッピーな自由人と言っていいだろう。その彼が40代の時に始めて書いた絵本の表題が「おおきな木」。原題はTHE GIVING TREE(与える木)である。
絵本と言っても「3才から老人までの為の絵本」とブックカバーには書いてある。
1964年が初版で1973年にフランス語初版、1976年に日本語の初版、さらに日本では2000年に重版発行されている。ロングセラーの絵本なのである。

読まれていない方の為にかいつまんでストーリーを紹介すると、

“むかし仲良しの小さな子とおおきなりんごの木があった、無邪気に遊んでいた幼少時代からその子が老人となるまでの物語。
おおきな木は献身的に愛をその子にそそぐ。小さな子は成長して大人となり、人生を積み重ねてゆく過程で様々な欲望が芽生え(今の社会環境であればごくごく当たり前の欲望ではあるのだが)、それに対して大きな木はそれこそ身を削り応えていく。しかも応えていけることに大きな喜びを感じるのである。その子が老人になって、今や切り株にとなった(りんごや葉や枝、幹も全てその子に与えてしまっている)おおきなはずのりんごの木に戻ってきた時に、おおきなりんごの木は言う。「すまないねぇ、ぼうや。わたしにはなんにもない、あげるものはなんにもない。りんごもないし−」
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老人となったぼうやは言う。「わしはいまたいしてほしいものはない。すわってやすむ、しずかなばしょがありさえすれば。わしはもうつかれはてた。」
するとおおきな木はその子に言う。「このふるぼけた切り株がこしかけてやすむのにいちばんいい。さあぼうやこしかけて。こしかけてやすみなさい。」
老人となったぼうやはそれに従う。おおきな木はうれしく思う”

静かでたんたんとした物語。たった5分もあれば読み終えてしまう絵本である。
しかし言いしれぬ戸惑い、「なぜ」「どうして」、このぼうやは自分の欲望のために、なぜ大切なおおきな木に犠牲を払わせるのか?どうしておおきな木はぼうやに人間の欲望のはかなさをさとさせないのか...などなど...。
しかし、このおおきな木は、ありがちな物語の範疇に納まり切らないのだ。

愛にも様々な愛がある。
親子の愛、兄弟、男女の愛...友情、師弟愛、人間としての愛...愛する人のためへの献身。これにはある種の犠牲を伴う、そう思ってしまうのが普通であろう。でもこのおおきな木は大切で大好きな人の為に、自身を与えて切り株になってしまっても、何の疑いもなく喜びを感じているのである。読まれた方は必ずと言ってもいいほど他の人の感想も聞きたくなってしまうようだ。僕も読んでいなかった事務所の人たちを巻き込んでしまい、感想を書いてもらった。

そこにはやはり感動ととまどい、反発があった。僕が始めてこの本を手にしたのは2年程前、50才の大台に乗った頃だったと思う。
人生50年もするとこういう僕にも少しはいろいろな出来事やアカのようにまとわりついている思い出の品、あるいは趣味の物がある。そろそろ整理をしてスリムにと考えていた矢先。それでもおおきな木に自分を投影できず、むしろぼうやはぼくのことであり、あまりにも自分の事があからさまにされているようで、又行く末を暗示されているようで、人知れず心の底でうろたえたのであった。
今、もう一度この本を手にしてみるとおおきな木に少しは自身を投影できるようになったような気がする。おおきな木が僕に何かをくれたのかもしれない。
2004/10/21

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